まつ毛の先に乗った光の粒が朝だということを告げた。
今日は稚内港から出るフェリーに乗って、礼文島という島を目指すことになっている。
荷物をまとめてバンガローを出ると、雲ひとつない青空が広がっていた。
この旅は本当に天候に恵まれている。
兜沼公園の朝の空気は、まだ昨夜の冷気を残して、ひんやりと肌に張り付いた。
管理棟でチェックアウトを済ませ、車に乗り込み、僕らは稚内港へと急いだ。
車内では、どうせまた同じ内容の高校の思い出話が繰り広げられていた。
僕らは5人とも同じ都内の男子校に通っていた。
部活のこと、林間学校のこと、名物教師のこと、文化祭のこと、球技大会には目もくれずカードゲームに興じたこと、2年連続で留年して他の学校へ編入していった同級生のこと、ヘンテコな造りの校舎、帰り道よく立ち寄ったスーパー。
話は尽きることは無かった。
共学校におけるいわゆる青春なんてこれっぽっちも無かったけれど、あの高校で過ごした時間はそれはそれで青春だったのかもしれない。
程なくして、僕らは最北の町、稚内に到着した。
例によって昨夜お風呂に入っていない僕らは稚内港の近くに見つけた温泉に浸かった。
固い床で夜を過ごして凝り固まってしまった身体を天然の温泉がほぐしてくれる。
昼過ぎまで温泉に浸かってから、JR稚内駅を見学することにした。
稚内駅は比較的新しいのか、白い壁とガラス張りの外観で小洒落ていた。
国内最北端の鉄道駅にいることを考えると、凄いところまで来てしまったという実感が湧いてくる。
そして、ここらから更にフェリーに乗って礼文島という島に向かうのだという。
旅程については任せっきりにしていて、礼文島という島が一体どのような島なのかは全く分からなかった。
下調べは無しに感覚で旅を楽しむ。これもひとつ面白いものだと思う。
稚内港から礼文島の香深港(かふかこう)までは約2時間かかる。
フェリーには車を載せられない為、稚内の駐車場に車を停めた。
礼文島で身軽に動けるように、リュックに最小限の荷物を入れ込んだ。
フェリー乗り場でチケットを購入し、ハートランドフェリーという名のフェリーに搭乗した。
2等席は約3,000円でチケットを購入できる。
2等と言っても、席は1~2等までしかなく、2等席は一段高くなっただけの6畳ほどの床である。くつろぐためには雑魚寝をするしかない。
しばらく、カード遊びに興じたり雑魚寝をしたりして過ごしていたが、いよいよ日の光に飢えた僕らは、フェリーの後方にある甲板に出てみることにした。
空は相変わらずの快晴で、真上の空は深い青色で遠くの空ほど白く輝いて、そのコントラストが美しい。
紺色の海にはフェリーが白波の道を作っていて、空と海の境界線に北海道の大地が薄く広がっていた。
甲板で景色を眺めていると、だいぶ時間が経っていたらしく、もうそろそろ礼文島に到着するとのことだった。
フェリーの中に戻り荷物をまとめていると、フェリーは段々と速度を落とし、やがて完全に動きを止めた。
礼文島に降り立った瞬間、港独特の潮の匂いが鼻をついた。
道路が海岸線沿いに続いており、正面には小高い山が見える。
礼文島は小ぶりで細長い形をしており、西側の海沿いには道路が無い為、半日もあれば車で回れてしまう。
香深港は礼文島のほぼ南に位置し、今日泊まるバンガローはほぼ北に位置していたが、カブを借りて回る予定だった為そこまで心配はしていなかった。
ところが「カブは経験が無いと貸せない」とレンタルショップの初老の店主が言う。
食い下がれる理由も無く、僕らは仕方なく自転車を借りた。
ママチャリというやつである。
時計を見ると、時間は午後4時30分を指していた。
その日、礼文島の左上にある澄海岬(すかいみさき)で夕日を見ることになっていたが、もたもたしていると日が沈んでしまう。
軋む自転車を北へとひた走らせた。
初めは気が付かなかったが、徐々に腿にだるさを感じ始め、道が平坦で無く少しだけ上り坂になっていることに気がついた。
5人の中にも段々と差が生まれ始める。
ろくに運動もせず、堕落的な大学生活を3年半も続けていると体力は見事に落ちているものである。
途中、勾配がきつくなったりして、僕らの息は絶え絶えだった。
冷たい北海道の海風が更に体力を奪う。
まだ見ぬ澄海岬の夕日だけが僕らを突き動かす原動力だった。
ただ一方で、港町特有の景色を楽しむことも出来た。
右側には大海原が広がり、低くなり始めた太陽が水面を燦然と輝かせていた。
左側には民家が続いており、干された魚やイカや貝類があったりして、やはりここは漁師町なのだと再認識させる。
時折、並走する海鳥が独特な鳴き声で僕らをせかす。
もうだいぶ北まで来ただろうと思う頃、海岸線を続く道と山へ登る道とに分かれた。
悪い予感は的中するもので、僕らが泊まるバンガローは山へ登る道を通らねばならなかった。
バンガローは山の中にあるのだから良く考えれば当然であるのだが…。
再び腿をだるくしながら、ある程度の高さまで登った僕らは右側に広がる海を眺めたり、写真を撮ったりした。
高台からの眺めは気持ちのいいもので、潮風が火照った身体を冷ましてくれた。
あと少しだと意気込む僕らはこの後絶望する事となる。
坂道は、西側、つまり山側へ大きく蛇行しており、そこから先の道がどのようになっているか見えなかった。
ようやく蛇行するポイントに着き、曲がった僕らが目にしたのは、空に向かって一直線に伸びる上り坂であった。
しかも勾配は更に増している。悪い予感というものは本当によく当たる。
人間は深く望みを失うと言葉が出ないものなのだと思った。
ただ、坂道があるということは下り坂もあると信じ、力を振り絞って坂道を駆け上がった。
何人かは諦めて歩いたりもしていたが、何とか全員のぼりきり、僕らを待っていたのは麗しき下り坂であった。
僕は汗だくになったTシャツを脱ぎ、身体全体で風を切った。
途中地元の小学生達から不審がられもしたが、登りきった達成感と大自然の開放感からか、羞恥心のようなものは無かった。
ようやくバンガローに到着した頃、既に午後5時を回っていた。
そこは広場のようになっていて、バンガローがいくつか点在している。
実は昼飯を食べていなかった僕らの空腹は頂点に達していた。
バンガローに荷物を置き、澄海岬に出かける前に、コンビニが近くに無いかネットで調べた。
すると、礼文島に以前訪れたことのある人が書いたブログがヒットし、そこには「ファミリーマートがあります」と書いてある。ご親切に住所の記載まであり、僕らはGoogleマップでその住所を検索する。
見ると10分ほどで着くらしく、一気に元気を取り戻した僕らはファミリーマートへ向かった。
「この辺のはずなんだけどなぁ。」
目的地には近いはずなのだが、一向にそれらしい建物は発見できない。
いつの間にかGoogleマップが指し示すポイントを過ぎてしまっていた。
来た道を戻ると、行きには気が付かなかったが、右手にシャッターを閉めた寂れた建物があることに気がついた。
看板を見やると、
「ふぁみりーまーと よこの」と書いてある。
それがブログに書いてあったファミリーマートだということに気が付くのに数秒を要した。
初めは言葉を失ってしまったが、すぐにもう堪らなくおかしくなってきて、5人とも腹を抱えて笑った。
空腹は辛かったがその足で、お目当ての澄海岬へと向かった。
澄海岬のすぐ側まで来ると、目の前に急な下り坂が現れた。
ここを降りれば澄海岬に着く。
車の気配は一切なく、僕らはその下り坂をブレーキもろくにかけずに一気に駆け下りた。
なんと気持ちの良いことか。
清涼感のある風を全身で受け止める。
下り坂は蛇行しており、両側には背の高い緑が生い茂っていた。
耳には風を切る音と車輪の音、そして男達の歓喜の声だけが響いた。
下り坂は永遠に続くように思われたが、降りきるとそこは小規模な港のようになっていて、漁の為の船がいくつか波止場に浮かんでおり、わきには漁師が休憩する為と思われる建物がひとつ建っていた。
建物の中に入ると、おつまみや軽食が売っていて、5,60代の漁師と思しき男が2人いた。
体つきはがっしりとしていて、顔は日に焼けて黒くなっていた。
「あんちゃんたち、どうしてこんなとこまで来たの。」
その問いかけ方もまた漁師であろうという予想を強めた。
夕日を見に来たことを告げると、
「あんちゃんたちみたいな若いのが、こんなとこまで夕日見に来るなんて、珍しいなぁ。」と笑われ、少し恥ずかしくなった。
漁師と思しき男達に別れを告げ、いよいよ澄海岬へと向かう。
澄海岬は、この小さな港の横にある階段を登ったところにある。
夕日もいい具合に傾き始めていた。
期待を胸に一段一段階段を登っていく。
段々と高さを増すにつれ、僕らの期待も増していく。
階段を登り切ると、その景色は有無を言わさない速度で僕らの感情揺らした。
もうすぐ沈みそうな夕日が岩壁に生い茂ったススキを射抜いて一直線に僕らを照らし、僕らは思わず目を細め、その絶景に歓喜した。
頂上はコンクリートで舗装されていて、柵がこしらえてあった。
そこからは鏡面のように穏やかな大海原を眺望できて、所々荒々しい岩が海から突き出している。
岬の北側から見下ろすと、そこは入江のようになっていて、夕暮れだというのに海の色はコバルトブルー色に澄み切って、底にある岩が斑模様を作り出している。
岩壁の土はオレンジ色に染められ、荒々しくも優しく入江を包み込んでいた。
観光客など誰一人おらず、僕らは澄海岬からの眺めを独占した。
いよいよ、太陽が海に沈み始めると、空は一気にオレンジと紫と青のコントラストを演出する。
夕日が作り出す黄金色の道で真っ二つに割れた波ひとつない日本海を僕らは眺めた。
階段を降り、帰ろうとすると、さっきの男2人が声をかけてきた。
「エビ汁作ったから食ってきなよ。あんちゃんたちのために店開けて待ってたんだぜ。」
澄海岬の絶景に、空腹のことなどすっかり忘れていたが、一気に食欲が込み上げてきた。
エビ汁は良く出汁が味噌汁に溶け出していて、五臓六腑に染み渡った。
窓から海を見ると、完全に沈み切ってしまった夕日が、まだこの世界に光を残そうとしていた。